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100日修行 4


《100日修行 3》で書いた「情動記憶」について、私の事例を紹介いたします。

 

 


~過去の情動記憶が意識に上がってきた出来事~


  

自転車事件

 

 

 自転車事件とは小学二年生のあるとき、父が中古の緑色の自転車を持って帰ってきた時の出来事です。

 

 私は、5人兄弟で、兄、私、弟、弟、妹がいます。小学生になった兄が、新しい自転車を買ってもらっていたのを見て「いつか私も自転車にのりたい!」と憧れていました。

 兄が小学生になったときに買ってもらっているのだから、私も小学生になったら買ってもらえるのだと思い込んでいましたでも、一年生になっても買ってもらえませんでした。まだ買ってもらえないのだと思ってはいるけれど、買ってほしいとは言えません小学二年生になっても買ってもらえません。

 

 お兄ちゃんだけずるいなあ私には買ってもらえないんだ……そんな思いを抱えていた二年生の夏休みのある日、家の前で遊んでいると、父が中古の緑色の自転車を持って帰って来る姿が見えました。「絶対に私の自転車だ!」と思って近寄って行くと 『お前のじゃない、タカシ(弟)のだ。』と言ってまだ5歳の弟のところに持って行ってしまう父。

 

 

 

 

 

 どの位ショックだったのかというと?

 

【私の存在を否定された】という位のショックでした。父には何も言えないし、泣いているところを見られたくないのでお布団を被って、隠れて泣いていました。

 

 でも、数日後にはピンクの真新しいピカピカの自転車がおばあちゃんからのプレゼントとして、私の元に届きました。 これは、大人になってから聞いたのですが、私の様子を観ていた母が、おばあちゃんに頼んでくれたそうです。 親は親なりに、考えてくれていたのですが…… 

 

 でも、大好きだった父からの言葉に傷つき、悲しくなった私がやったことは「そんなことには傷ついてなんかいないよ!」ということでした。

 

 めちゃくちゃに傷ついて、悲しくて……あまりにも辛かったので、「私は父にとってはイラナイ子なのだ」と感じたのを封印しました。

 

 傷ついたことを隠して、抑圧したようです。感情を抑圧することにエネルギーを使い続けていきました。そして大人になっても感情を抑圧することで、自分を保っていきました。

 

 


 

 この一連の出来事によって、培ってきた私の【思い込み】。

 

 その思い込みによっての反応は、発するのではなく【抑える】。

 

 この流れが出来上がっていたことに気付き、自分でその当時の思いを癒していくことによって心が軽くなっていきました。

 

今の自分に合った新しいゴールも設定していけます。

 

 


 

 

 クレンジングをした私だから、今、見えるようになったものがあります。

 

 

 それは、「なあんだ、あのときの父は、たまたま中古の自転車が手に入ったので、中古だし、緑色だし、これは男の子用だな」……という判断をしただけだろうということ。抽象度を上げた視点で、何が起こっていたのかを分析・評価してみて、気づきました。

 

 

 

 

 そして、父は人の気持ちを察することが出来ないタイプでした。ちょっと前に『アスペルガー症候群』のことを知り、似ていると思いました。(いまはその分類はしないそうですが)

 

 私の父親は、子どもと接することが得意ではなく、わが道を行く芸術家のような雰囲気の人で、小さな頃に、一緒にお風呂に入ったこともありませんでした。

 子どもの気持ちを考えることに重要性を感じなかっただけで、だからといって、子どもを愛していないのではなかったのでしょう。

 なぜなら、幼稚園の遠足の時に、母と行く予定だったのですが私が「お父さんと行きたい!」と自己主張したときには、父は大喜びで出かける支度をして、ルンルンと私を連れて、1時間も早く出て行ってしまったんだと母から聞いていたのです。

 

 本当に私のことを疎んじていたのならば、そんな反応はしないものでしょう。

 

 なので、私の存在を否定するために、わざわざ中古の自転車を持ってきたのではなかったのでしょう。きっと、私が自分の気持ちを伝えていたら、父はちゃんと対応していただろうと……今なら思えます

 でも、当時の小さな頃の私には、強い情動に翻弄し、ただ中古の自転車が手に入っただけだろうとも考えられず、自分自身の心の傷を無かったことにしようとしていたのでしょう。

 

 人は、情動が大きく動いた出来事によって傷つき、【自己否定】をしていく流れを作ってしまうことがあります。小さな頃は、それまでに得ている知識の量や経験が少ないので、自分に起こった出来事に対しての『情報処理』が大きな視野で出来ません要するに、抽象度の低いところでの思考しか出来ないため、知識や経験を積んだ大人が見ている世界とは同じように見えないのです。

 

 スコトーマ(心理的盲点)だらけなのだから……

 

 なので、自分に湧き起こった情動をどう処理していいのか解らない処理しきれないので、自分の心の内側に押し込めて我慢する。そのようなことの繰り返しで、【自己否定】だけが育って行き自己イメージは、ネガティブな状態に陥ったまま、そこから出ることも出来ない状態で人生を過ごしている人たちが沢山いるのだと感じております。

 

 

 小さな頃に作った【思い込み】は、大人になった自分が、それを癒していくことが出来ます。無意識下にある【思い込み】を解消するには、《止観瞑想》をすることです。

 小さかった当時の自分の【思い込み】を、大人になったあなたが再解釈していくことで、その強い情動記憶からきていた自己否定などの

 

ネガティブな自己イメージを、肯定的な自己イメージに変えることが出来るのです。

 

 

 次は他者から否定されてきたことによって作った自分の【思い込み】から脱したお話です。

 

 

 


 

ピアノ講師の否定的な言動

 

  

 私は、ピアノを小学2年生のときから習っていたのですが、そのピアノの講師は、女性で、幼稚園でもピアノを教えている人でした。

 近所のお友達が通い始めたというので、母親から勧められて、私も習いに行くようになりました。

 

 このピアノの講師は、生徒を叩く人でした。まだ小さい子供の背中や頭、手を叩くのです。 ちょっとでも間違うと ピシャリ。「練習をしていないでしょ!」と怒り、ピシャリ。何度も何度も叩かれる事が……本当に嫌でした。

 毎週水曜日の放課後は、お腹が痛くなっていました。(この反応を【創造的逃避】といいます。)

 でも、叩かれているなんて、母親には言えません。 

 

「ピアノの練習をしていかない私が悪い。」 

「ちゃんと弾けない私が悪い。」 

 

 そんな風に考える子供だったので、ずっと我慢していました。小学6年生まで通い続ける間に出来上がったのは【ダメな私】【私は出来ない人間】という劣等感でした。

 

 そんな劣等感の私でも、聞いた曲を楽譜にすることは得意でした。毎回、ピアノのレッスンの前に、講師がピアノを弾くのを楽譜にする。それは毎回、いの一番に完成して、しかも正確に出来るので、得意になって講師へチェックしてもらうために楽譜を持っていくと……

  

「こんなことが出来たってダメなのよ!!」と怒られる

 

 私は【たとえ得意なことがあっても、本来はダメな人間なのだ】と思っていきました。自分の得意なことが出来たって、不得意な事が有る自分ではダメなのだ。……という感じでした。

 

 私の劣等感の形成は、毎週水曜日に通っていたピアノのレッスンで培われていました。 そう思っていました。

 

 


 

 けれど、この話を仲間に話していると、仲間からの質問されました。「それで、あきらさんはピアノの先生が言うとおりにピアノの練習をするようになったの?」と。 

 

私 『まさか!練習なんてず~と辞めるまでやりませんでしたよ!』

  

仲間 「すごいじゃない!あきらさ~ん!!」 

 

私  『え??……なにがですか?』

 

何がすごいのか、さっぱり解りませんでした。そんな私を見て、その人は言いました。

 

仲間 「すごいわよ~!ちゃんと自己主張していたのね!! そのピアノの先生の言うこと、叩くことに納得がいかない!ってこと、ちゃんと自己主張していたじゃないの。」

  

私  『自己主張ですか?私がそんなことしていましたか?』

  

仲間 「そうよ! ピアノの先生に支配されて言うことを聞いちゃう子は      そんな時は一生懸命に練習するようになったりするのに、あきらさんは、その先生の言動に納得がいかない!って支配されずに、ちゃんと【先生の言うとおりにしない】ことで、ピアノの練習をしないという行動でやっていたじゃない!」「すばらしいわ!あきらさん!」

  

私  『え……私って、そういう形で自己主張をしていたのですね。…ってことは、本当は私って凄いんじゃないですか!?』

 

仲間 「そうよ! あきらさんは、ちゃんと自分で見極める目を持っているのよ!」

 

 

 そんなやり取りで、過去の情動記憶の出来事を違う視点で観て、改めて再解釈する会話が出来るようになり、思いっきりスコト-マが外れたのと同時に、自信が湧いてきました。

 


 

 

 

恐怖心の根底にあったものがわかった出来事

 

 

 子どもの頃、最初に感じた恐怖は、何だったのかは覚えていないけど、いつからか、周りの人が怖いものだと感じていました。

 特に何をされることがなくても、ただ、怖くて仕方がなかった

 

 考えてみるときっと、相手から発せられる強いエネルギーに負けていたのだろうなぁと思います。それは、今だから解る訳であって、これまでの人生では、抽象度の低い視点でしか観れなかったから、怖くて怖くて仕方がなかったのを見ないように隠していたのだと思います。

 

 そして、怖さを感じなくするために【鎧】を着ていたのでしょう。硬くて、固くて、強固な鎧を、私は被っていました。

 

 

 

 

 このことが意識に上がって《情報処理》をしたのは、母と三峰神社に行く途中での出来事でした。

 

 私が車の運転をしていたのだけど、山道の狭い所で、対向車の大きなトラックが現れた時、私は、とてつもない恐怖感を感じました。

 

 その場では、普通にすれ違っただけで終わりなのだけど、その時に心の中で起こったことは、『怖い!逃げたい!』……という強い情動が大きな波となってわき起こってきました。

 

 「あぁ、私は対向車がこちらに向かってくる感じが怖いのだな。」…ということが解った途端に、ある事に気づいたのです。

 

 子どもの頃から人が怖かった理由について。それは、前からこちらに向かって来る人が、みんな敵なのだと感じていたみたいなのです。

 

 

 

ただの対向車なのに、何故か、敵だと思って怖がり

 

 心身を硬く閉ざしていたのだということが、ハッキリと意識に上がってきました。意識に上がってくると、コントロールが可能になります。

 対向車を敵だと思い込んでいたことを客観的に観れるので、それにともなった【思い込み】を壊すことが出来るのです。

 

 『対向車』というのは例えですが、人はそれぞれ、その人の道を歩んでいるだけであり、別に私に襲ってくる敵ではなかったことにも気づきました。

 

 

 ただ、横をすれ違って通るだけなのに、私の前から向かって来て、私の通っている道を塞ぎ、私が通れないようにして、先に行けないようにする敵だと感じ、邪魔をするだけでなく、攻撃してくる敵なのだと……そう感じ取っていたようです。

 

 私が勝手に、そう感じていたのだということが解りました。気づいた途端、『なんだよ~!そんなことで怖がっていたのか!』と言ってしまいました。

 

 そんなことが私の無意識にあったなんて全く気づかなかったのです。だから、私は心を許せる人以外には、心身を硬く閉ざしていたのですね。

 


 

 自分自身の【情動】が大きくわき起こることによって《止観》し、《自分をよく観る》ということで気づき、スコトーマが外れ、【思い込み】から出ることが出来ました。

 

 気づいてしまえばとても単純なことなのだけど、気づいていない状態では、ただ人に対しての言い知れぬ恐怖心があり、ただただ……情動に翻弄されるだけの反応をしていました。

 

 これまでだって車を運転していた私です。何度も同じように対向車とすれ違っていたのに、このことに気づいたのは、この日でした。

 

《情報処理》が出来るようになった頃、ちょうどいいタイミングで、気づく流れが現れるのですね。

 

……こういう感じなのです。止観する機会が出てくるということ……

 

 

 自分自身の強い情動が現れたときだということなのです。

これを、『私は何故、人が怖いのだろう? なにかあったのかな?』……などと、

過去にあった出来事を無理やりに思い出しても、《情報処理》が出来るタイミングではない時期だったら、トラウマを再体験することになってしまいます。やらないでください。

 

 

 過去の情動記憶を何とかしようと、無理に思い出すことはいらず、そのタイミングがきたら、勝手に強い情動が出てくるものなのです。

 そして、それに対して抽象度の高い視点で過去の出来事を捉えなおし、情報処理》が出来ることによって、その【思い込み】から脱することが出来て行きますので、私は日々、いつでもどこでも《止観瞑想》をすることが大切だと思っています。

 

 あきら流の止観瞑想は、このような感じです。

 

 日々の生活の中で、強い情動がわいた時に、《自分をよく観る》

 それまでの人生の中で作ってきた【思い込み】の原因となった過去の出来事が意識に浮かんできたときに、《再解釈》して《情報処理》をしていきます。

これからもなにか出てくるでしょう。

 

 


 

 

 

 小さな頃に感じた【強い情動】は、人間であれば誰もが体験するものであり、初めてその情動が強く起こったときに、【情動記憶】として無意識に蓄積されていくものです。それは、怒りや不安、悲しみや恐怖心、嫉妬心など、人間として当たり前に持っている《生存欲求》からくる情動なのではないでしょうか。

 

 そんな当たり前の欲求なのだけれど、子どもだった当時では、知識の量も、経験してきたことも少なく、抽象度の低いところでしか考えることが出来ずに、《情報処理》ができなかっただけ。

 

 大人になり、様々な知識も増えてきて、色々な経験を積んできた私たちは

 

当時の出来事に対して《再解釈》という《情報処理》が出来ます。もちろん、必要な知識を得ている場合の話になりますが……ひとつひとつの情動に対して、過去の情動記憶が再解釈され、情報処理されていくことで、様々な束縛からも自由になって行きます。

 

 自分自身で【思い込み】という束縛をしていたところから、自分自身の思考で《情報処理》をし、開放されたのですから。あらゆる【思い込み】を【情動記憶】により作ってきていて、自分で殻を作り、壁を作り、鎧を被っています。

 

 あなたは《止観瞑想》によって『自分をよく観る』ことで、殻を破り、壁を壊し、鎧を脱ぎ捨てちゃいましょう!

 

 

 


 

 

 

 あなたに質問です。

子どもの頃、サンタさんがいると思ってましたか?なぜ、存在しているのがと確信していましたか?

 

 そして……いつ、サンタさんがいないのだと気がつきましたか?

 

 あなたの【思い込み】も、そういう風に作られ、そういう風に解いていくのだと思います。子どもの頃には信じて疑わなかったことも、大人になる過程で、違う情報を得ていくことで変化します。

 

 あなたは、もうサンタさんの存在があるのだと信じておらず、クリスマスの朝にプレゼントが枕元に置いていないのが当たり前の状態になっています。 

 サンタさんでなくても、同じように子どもの頃に信じていたことが、大人になって行く過程で様々な情報に触れ、もう信じていない状態になっていることはありませんか?

 もし、あなたが自己否定をして、劣等感に苛まれているとしたら……それを解消して行く流れは、サンタさんがいないことに気づくのと同じ流れです。

 

 

 あなたには《無限の可能性》があるのです。

ただ、《無限の可能性》があると信じるより前に、【自分には可能性は無い】と思い込まされていただけなのではないでしょうか?

 

 止観瞑想によって過去の情動記憶の情報処理の流ればかりをこれまで見てきましたが、その先があります。そう、『未来へ向かってどうしていきたいのか?』という自分自身の本当のゴールを見つけていく流れです。

 

 本当の自分自身の思いに、気づいて行くことです。

 

 ある程度、過去の情動記憶の情報処理が進んで行くと、これまでと同じ世界にいるのに、全く違った世界に感じる瞬間が来ます。その流れのことは、また別の機会に書いて行こうと思います。

 

 

 

つづきはこちらです

→《100日修行 5》